色々と

学術に関する事を記したり記さなかったり

気象入門の入門とその道筋

本記事は いかつぼ Advent Calendar 2020 の17日目の記事である。


 この記事は「気象・気象学においてどういう道筋で学んでいくのか」という入門から風の発生に至るまでについて恐らく「聞いたことあるキーワード」までを押さえた大雑把な解説となる。雲の形成などについては大気や風についての話からの応用になると考えてるので、この記事ではしない。
 そして、この記事についてはジャイアンインパクト説を用いて説明しているため、他の説と齟齬がある可能性があり、筆者は浅学の身でもあるので、この記事は絶対的なものではないということを注意してほしい。


1. 気象とはなにか
 気象において、基礎中の基礎となるのが「大気・水・熱(太陽)」である。この3つがなければ天気という現象が成り立たないからだ。
そのためには何処から話が始まるのか?という所から始まる。

2.気象の事始め
 気象というのは地球が形成されてすぐに登場するわけではない。ここでキーワードになるのは「原始地球」というものだ。
 46億年前に微惑星の集積に依って原始地球が誕生した。鉄と珪酸塩で構成され、現在の地球半径に比べおおよそ30%に至った頃に衝突のエネルギーでマグマが溶融し始め、そこから脱ガスにより原始大気の形成が始まる。ここで考えられているのは、原始太陽系星雲のガス成分が大気を作るのではなく、微惑星に含まれていたガス成分が抜け出したものではないかというものだ。
 原始大気における成分は主に水蒸気と二酸化炭素、他に現在の温泉ガスや火山噴火した際の成分と似ている窒素や一酸化炭素、亜硫酸ガスが含まれている。
 ここから現在の地球半径に比べておおよそ50%に至った頃に、水蒸気と二酸化炭素に依る温室効果で表面が1500Kほどに加熱され、溶融した珪酸塩が主成分となるマグマオーシャンの時代となるが、ここから地殻が形成されるまで割愛する。
 地殻が形成されてから原始大気の水蒸気が凝結し、降雨となり海洋が形成される。分圧にして300気圧の水蒸気が凝結した場合、海の平均水深はおおよそ3000mとなる。できたての海は塩素や亜硫酸ガスが溶けている酸性であったが、水蒸気が雲を形成し、陸地に降り注ぐことによって陸の侵食からナトリウムやカルシウムを水に溶かし、海を中和するようになった。
 その後、二酸化炭素が海に溶けるようになり、海水中のカルシウムを炭酸カルシウムに変化させ沈殿するようになった。ここで、大気中の二酸化炭素は海に吸収され石灰岩として沈殿し、相対的に大気中の二酸化炭素は減少していった。これにより、残された窒素が主成分となった大気が完成する。

3.生命の発生
 38億年前には生命誕生の準備が整っていたとされているが、ここではまだ不確定な要素が多いため生命の誕生については割愛する。
 酸素分子を生み出す最初の生物はシアノバクテリアという光合成を行う原核生物が誕生した。発生した酸素は水中にある鉄を参加させ、ストロマトライトを形成してから沈殿し、そこがシアノバクテリアのコロニーとして縞状鉄鉱層が形成された。
 ここからおおよそ25億年前の原生代前期に酸素が急激に大気中に広がり、そこから現在からおおよそ18億年前頃にオゾン層が形成され、成層圏や中間圏ができた。オゾン層の発生により、太陽からの紫外線量を低下させ、生物が陸地への進出ができるようになった。現在からおおよそ5億年前、カンブリア爆発と言われている生物の大規模な拡大が行われたが、これはオゾン層が生命に適した大気環境を作り出した。

4.1.現在の大気と風
 本来であれば、ここから現在の大気の鉛直構造やら気温の南北分布やら、太陽放射やら気圧傾度などの話が入る場合が多いが、ここでは入門やざっくりとした解説のため割愛する。
 風というのは水平方向に密度差が生じることにより発生するもので、空気の密度は気温が上がれば上がるほど小さくなり、密度差は気温差によって発生する部分が多い。大抵の場合、ここでは上空と地上の2つの層か双方の風の流れの説明をするが、ここも割愛して地上視点での風の流れを大雑把に説明する。
 
4.2.海陸風
 4.1で大雑把に踏まえた点で筆者がわかりやすいと思うのは海陸風である。
 昼間は海から陸に、夜は陸から海に風が流れる事が多い。これは、「水は熱容量が大きく、熱しにくく冷めにくい」という性質があり、日が差している日中は海洋も陸も暖められ温度が上昇するが、陸のほうが温度が高くあがり、海から陸に向かって風が吹く。逆に夜間は放射冷却により海洋も陸も温度が下がるが、海は陸ほど温度が早く下がらない為、陸から海に向かって風が吹く。簡単な図解で現すとこうだ
 昼間:海(温度低)→陸(温度高)|海風
 夜間:海(温度高)←陸(温度低)|陸風
のような形になる。
 他にも山谷風という高さが存在する風の流れがある。海陸風が横ならば、山谷風は縦の流れだ。海陸風の昼間と夜間という1日周期と同じく、地形の高低差でも1日周期での風の流れが発生する。が、これはある意味では海陸風の応用にもなり得るので割愛する。


余談:雪の結晶の形状を決定づけるには「過剰水蒸気密度」と「温度」が関係している。これについては「中谷ダイアグラム」や、それを改良した「小林ダイアグラム」などがキーワードとなる。

終わりに
 大変大雑把であったが、「大気・水・熱」があり、そこで初めて天気が登場し、温度差から風が産まれる。というところまで大雑把な要約が済ませられたと考えている。勿論、説明として足りない部分は多くあるが、それはこの記事を呼んだ人々が学習して補う部分であると考える。ここから温度が水蒸気を発生し、熱で雲を生成し、風がそれを運ぶ。というところまで行きたいが、説明が長すぎるのでここまでとする。ただ、前提が大まかにわかる事により、円滑に学習が進むのではないかと考えているので、是非これを気に気象や気象学に触れて欲しいと考える。

 

鳥類の小話

鳥類の小話「そろそろなにかしなければなあ」と思ったら前回の記事から78日も経ってしまった。2週間に1回は更新できるよう心がけたい。

 

この記事については私が過去に恩師から聞いた話についての考察したものを記述した小話程度のものである。

 

 私が高校時代に鷺類の生態や、水生昆虫、植物の分布などについて活動をしていた恩師と話した内容で、ある日「鳥類というのはスゴくてね、万が一哺乳類が絶滅した場合、次に文明を築く種は鳥類と思えるほどなんだ。」という話を恩師がした。
 その根拠として鳥には、両生類や魚類などの他の種と違い、様々な有利な点があるからと話した。ただ、残念ながら恩師の話は時間の都合上ここで途切れてしまい、ここから先は個人的な考察などになる。

 

 まず、社会的であるということだ。無論、鳥類全てではない。しかし、鷺のように様々な種が集団で巣を作り(これを「コロニー」という)生活をしている。
 しかし、これはハチやありなどの昆虫にも見られるが、これらは個々としての集まりではなく、姫ありきの集まりであるので、社会的といえども命令あってこその集団であるため、鳥類の話とはズレてしまうと考える。
 例えるならば、鳥類は「自分が生きる上で利害関係の集団」であるとするならば、昆虫は「種を生かすための集団」であると考える。

 次に、知能である。鳥類にも差はあり諸説あるが「カラスは人間で言う7歳並の知能がある」と言われるほどである。
 無論、知能があると言われる生物にタコなどがいるが、これらは比較的活動範囲が狭く、共食いなどを頻繁に起こす。これらはストレスが要因だったりするが、そういう点は社会性が低いと考える。(タコのコロニーなどの話を小耳に挟んだりするが、専門ではないので調べる時間をください…)

 最後に渡り鳥などを見て長距離移動できるという点である。これは自身にあった環境を探し求める事ができるのである。そこに適した進化を行う種もいるが、その地に適した進化ではなく、自身が移動するという進化を遂げることにより自由度が上がるのである。
 特に注目したいのは移動経路は「空」という点である。陸路や水路とは比べ、空路は障害物が少ないのだ。無論、気流や気候は存在するが、海流や山などの物理的なものに比べれば些細なものだと考える。空を飛んで移動する他の種もいるが、飛距離は鳥類(渡り鳥)のほうが遥かに上である。

 他にも鳴き声などの長所があり、解説すると文字数が限りなく増えてしまうが、これだけ列挙すれば「哺乳類が絶滅したあとに文明を作るのは鳥類である可能性が高い。」という理由を理解していただけると思う。
 もちろん、これを説として推すには種が分散しすぎて、総合的に評価し過ぎだとも思う。しかし、この説が真と証明するには我々人間や猿などの哺乳類が絶滅してからでないとわからない。なので小話程度に受け取って欲しい。

 

 次回からもこんな感じで小話程度の記事が書けたらな。と思う。

結局自然科学とはなんぞや。

この記事は以前投稿した以下2つの記事の続きである。

 

rabdoslogos.hatenablog.com

 

 

rabdoslogos.hatenablog.com

 

 大まかに「自然科学」という枠組みと、経緯を説明した。
 しかし、ここから「よし!(任意の学問)をやろう!」となる人は少ないであろう。なぜ、そうなるのか。ここでは大きなスケールで語ったが為に、ソレを構成する細かなところについて説明をしていないからだ。
 そこで、ここから物理や数学、いわゆる「自然科学」を構成するものに焦点と道筋を示していこうと考える。

 さて、自然科学とは大まかに数学,物理学,化学,生物学,宇宙・地球科学の5つである。正しい所を突き詰めれば数学は「形式科学」に分類されると思うが、まあ、手元に放送大学の教材「自然科学はじめの一歩」があるのでこれに倣って説明する。

 まずは数学である。数学とは大きく横の広がり、縦の広がりを見ていくと、横の広がりは、社会現象や自然現象の中で数式や数学の言葉を用いて表現する。縦の広がりは、数学特有の問題意識を基に、より深い数学理論を生み出すことにある。縦の広がりについては、これでは分かりづらいだろうから、わかりやすい例を上げると「ミレニアム懸賞問題」である。無論、ソレに括られない。未解決問題というものは世の中にまだある。それを解くために数学が必要になってくる。

 次に物理学。物理学については、よく分子・原子など聞くと思う。これらはスケールが小さいもので、そこから更に中性子や、クォークと更に小さい要素があり、物質の基本を探っていくことにある。そう、目的の一つに「物質の基本構成要素」を探る試みが含まれる。そして、特徴が「対象」ではなく、「方法」にあることに注意してほしい。基本的な物理法則に基づき、自然の現象を示していく方法であり、これが適用できないならば、物理学としてメスを入れるのはとても難しいものとなる。

 次に化学。身の回りを構成する物質は様々な形をしているが、それらは結局原子や、原子が構成している分子、それらが作り出す世界を見ていくものである。例えば、わかり易い例だと炭素、ダイヤモンドと鉛筆の芯、どちらも炭素であるのに、ダイヤモンドは無色透明であり、自然界では最も硬い鉱石だが、鉛筆の芯は真っ黒であり、非常に柔らかい。同じ炭素でもココまで何故違うのか、そういうのも考えたりする学問である。

 次に生物学。地球上に暮らす生物は、様々な形で多く存在し、現在では研究分野に細分化され、各々の目的や興味は異なっており、その中でも多くの研究者が解明を期待しているにも関わらず、現時点では到達することがとても難しい課題がいくつか存在する。一つは「どのようにして、生物の絶滅や、生物の住む環境の劣化引き起こさずに、人間の活動を持続していくか」という課題である。これ以外にも「細胞の機能や仕組みを理解し、自由自在に扱えるようにする」というものもある。無論、この2つ以外にもまだまだ課題は有るが、そこはその道に進んでから見ることになるだろう。

 最後に宇宙・地球科学である。これらは先の上げた学問よりも、非常に広い時間と空間スケールを対象にしている事が特徴である。地球を含む惑星を構成する1つの鉱物の結晶から、宇宙の構造までという空間に加え、数分で変化する自然現象から、宇宙の歴史である138億年という時間が対象になる。自然科学は場合によって基礎科学と呼ばれる事があるが、宇宙・地球科学についてはそれらの総合・応用の側面が強いかもしれない。

 以上、学問を構成する大まかな分野と、それを構成する細かな分野において自然科学は成り立っている。もちろん、自然科学だけでなく、社会科学と呼ばれるもの、人文学と呼ばれるものなどもそうだ。色々と細かく話を進めていきたいが、生憎私にはそこまで話せるほどの知識量や、経験などがないので省略する。

 しかし、学問も積み重ねがあり、分野によっては歴史が浅い学問もある。まだ全て解き終えた物があるわけではなく、考え続けるのが科学というものだ。ぜひ、これまでの記事で勉学や学問について興味を持ったのであれば、私はこの記事を書いた意味がある。
 大変読みづらいものであるが、これからの発展を1人の学問の道を進む者として、切に願っている。

 以降の記事についてはまた気まぐれでネタが思いつけば書いていきたいと考える。

巨人の肩の上に立つ

「今日投稿しよう」と思いつつ編集作業をしていたらついに年を越しました。
あけましておめでとうございます。
浅学ながら学問についての記事を書いて行きますが、訂正箇所等があればご教示頂けると幸いです。
そして今年もよろしくお願いいたします。これからも良い日々が続きますように願っております。

 

さて、本記事は前回に書いた「自然科学系の何か」の続きである。

 

rabdoslogos.hatenablog.com

 

 

 前回予告したとおり、「巨人の肩の上に立つ」から話を始める。

キーワード:巨人の肩の上に立つ

 

 自然科学の歴史については、以下の段階的な発展があると言われている。

  1. 現象や物質、生物などを発見・観測し、記録
  2. 記録を整理し、分類
  3. 原因・原理を説明する仮説・検証・法則を観取
  4. 法則に基づいた予測及び観測に依る検証

*1

 この段階的な発展は自然科学の研究において、全てがこの順で進行している訳ではない。しかし、研究の現場では複数の段階が同時進行している事が多いかもしれない。だが、各段階が不十分な状況において、その先の研究が好ましい方向に進むことはない。
 これらを確かに進めていくならば、ある程度精度が保たれた記録の蓄積が必要であり、過去の天動説と地動説の議論がそれを体現している。2000年を過ぎた現在では「当時は記録が足りなかった為、提案された様々な天体運行モデルは不十分である」とまとめる事ができるが、当時の科学者にとってはその時点で得られているデータを基に可能な限りの考察及び議論が精一杯だったと考えられる。天動説と大きく言っても、中には記録に依らない思弁の発想に基づいたり、観測した記録から能う限り論理的に説明しようとしたものまで様々である。記録と論理に基づいてるのであれば、自然科学における進歩の段階として結果的に間違っていようと馬鹿にはできない。現代の自然科学でも同じ状況にないとは限らない事を意識している。研究テーマの規模や性質に依って段階を絞って研究したり、全ての段階の研究を行い、研究成果を導く場合もある。

 さて、今回の題である「巨人の肩の上に立つ」の話に戻る。これは、研究成果の継承であり、"Standing on the shoulders of the giants"(巨人の肩の上に立つ)という例えを用いる事がある。

その意味するところは、偉大な先人たちの業績や先行研究などを巨人に喩えて、現在の学術研究の新たな知見や視座、学問の進展といったものもそれらの積み重ねの上に構築され、新しい知の地平線が開かれることを端的に示した言葉とされる。

(レファレンス協同データベースより(https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000151707))

 意味はレファレンス協同データベースより引用した一文が全てである。リンク先には回答プロセスや参考資料が記述されているので、参考にしてみるのも良いと思う。
 自然科学では、研究や成果、仮定などが、この「巨人」を構成する一部分であるという事を意識して行う必要がある。そして、後世に情報が正確に伝わるように、言葉の定義や数式に依る表現が重要であり、曖昧である定義や言葉は後世の研究者に対し誤解を与える可能性がある。
 それらを避ける為に専門用語などが増えてしまい、堅苦しい表現や数式が沢山出てくる結果となっている。これにより、自然科学がとっつきにくい原因になっているのである。しかし、先に述べた「巨人の肩の上に立つ」には必要な関門であり、これを突破した際に得られるものは凄く大きいのである。肩まで立たずとも、巨人の手に乗るだけでも地上とは違う景色が全く違うモノになるだろう。
 如何に小さい成果であれど、積み重ねられた言葉や定義を使い、自身の得た考えによって書かれた成果や結果は価値がある。それを論文として書けば、それは巨人の身体の一部を構成するものとなり、更に後世の化学の発展に繋がるものである。

 以上が「自然科学系のなにか」の道筋である。
此処から先は自然科学の各分野についての話しか出来ないと私は考えている。
気が向けばココから先、自身が学んでいる宇宙・地球科学、生物学、化学等のガイドについて記述するかもしれない。

 

 

 次の記事は

 

rabdoslogos.hatenablog.com

 

*1:放送大学教材の「自然科学のはじめの一歩」では
"1.記載とコレクション,2.分類と「図鑑」の作成,3.一般化と体系化,4.予測と検証"
と分けられていたりする

自然科学系の何か

本記事はkvin鯖 Advent Calendar 2019: Day 23の投稿記事である。
加えて今後のわたしのブログの話題の初めとする。

 

さて、学術に関する記事は初めてです。諸々抜けててもあしからず。

 

今回のテーマは「自然科学系の何か」である。

 

自然科学とは何か。この場では自然科学の大まかな導入で済ませる。
 ぶっちゃけた事を言うと、「自然科学系の何か」なので、自然科学が内包する自然の現象だったりの事情について話しても良いのだが、それでは万人受けしないので、今回は私が通った自然科学についての道筋を話す。

 そして、ここで残念なお知らせがある。私も浅学者である。誤りがあればご教示頂けるととても助かる。

 

 では、まずは自身と自然科学について関係を思い出す所から始めよう。今日に至るまで「自然や宇宙に対して全く興味を持ったことがない」という人は少ないであろう。例えば、ドライアイスを水に落とした時を見て喜んだり、片栗粉と水でスライムを作ったり、空気砲を見てワクワクしたり。「実験」をして楽しんだ事はあると思う。
 しかし、中学・高校になってから「理科」が物理や化学・生物・地学など細分化され、それらに対する意欲や関心が急激に薄れる人は少なくないと考える。これについては、成長とともに関心事が人間的・社会的な現象や事象に移って行くということが考えられる。
 他にも、自然科学を受け入れるに対して心理的な抵抗が増えるということがあるとも考える。例えば、かつて興味をもった自然現象が科学のルールによって縛られて行く絶望する人も多いと思う。現在から数百年、千数百年前の知らぬ科学者が見つけ出した自然法則やルールに則って「自由なことをしてみましょう」といっても、興味がない状態では不自由で何もできなかったりする。おそらく最初に習うオームの法則を使いながら、自然の現象に対して探究心を引き出すにも難しい所がある。
 こういうジレンマを抱えたまま進めていくのはとても苦しい。

 

 では、どうして進めていくか。自然科学関係においてはある程度「問の立て方」がある。これを説明するには自然科学における歴史・経緯の話をしなければならないが、クソ長ったらしいので雑に要約をしながら話す。

 

キーワード:17世紀科学革命、アリストテレスガリレオ

 科学革命とは自然の現象に対する問いの立て方について変わった時期である。
 科学革命以前は自然科学という存在が存在しなかったわけではないが、錬金術等の即物的な考え・技法や、アリストテレス的な「現象の本質を観察し、理屈を導く」にとどまり、宗教などの超自然観に対する見方を克服することはできなかった。
しかし、ルネサンス宗教改革が始まり、神を中心とする超自然観から重点が覗かれ始め、大航海時代により数多くの知識・情報が増え、そこから「実験データ間の関係性を確立しにいく」というガリレオ的な姿勢に変化したのである。
 つまり、「質」から「量」あるいは「対象」から「方法」に転換したのである。
 ここらへんについては、データの比較が重要になっているということは、「測ることができるもの」という対象に限定されていると言うことがわかる。
 この姿勢については、ガリレオが発した言葉である「測り得るすべてのものを測れ。測り得ないものは測り得るようにせよ。(Measure what is measurable, and make measurable what is not so) *1」にまとまる。

 つまり、自然科学において「知る」というのは「測る」ということであり、実験のデータをグラフにして考察するということは、数学で言う「関数」の概念を用いるということになる。
 量等の関係を記述するための言語として数学が使われるので、ガリレオの「自然という書物は数学という言語で書かれている。(The Book of Nature is written in the language of mathematics)*2」という発言も象徴である。

 ここから自然科学の発展段階だったり、各分野についての導入も書きたいところであるが、そこまでかたっ苦しい事を初っ端からしてしまうと今後のハードルが高くなりすぎてつらくなってしまう。今回はここに切り上げて、この続きのキーワードだけ記しておこう。

キーワード:巨人の肩の上に立つ(standing on the shoulders of Giants)

 

 

*1,I Gordonand and S Sorkin,The Armchair Science Reader (New York 1959)
*2,The Assayer (1623)

 

次の記事は 

rabdoslogos.hatenablog.com