自然科学系の何か
本記事はkvin鯖 Advent Calendar 2019: Day 23の投稿記事である。
加えて今後のわたしのブログの話題の初めとする。
さて、学術に関する記事は初めてです。諸々抜けててもあしからず。
今回のテーマは「自然科学系の何か」である。
自然科学とは何か。この場では自然科学の大まかな導入で済ませる。
ぶっちゃけた事を言うと、「自然科学系の何か」なので、自然科学が内包する自然の現象だったりの事情について話しても良いのだが、それでは万人受けしないので、今回は私が通った自然科学についての道筋を話す。
そして、ここで残念なお知らせがある。私も浅学者である。誤りがあればご教示頂けるととても助かる。
では、まずは自身と自然科学について関係を思い出す所から始めよう。今日に至るまで「自然や宇宙に対して全く興味を持ったことがない」という人は少ないであろう。例えば、ドライアイスを水に落とした時を見て喜んだり、片栗粉と水でスライムを作ったり、空気砲を見てワクワクしたり。「実験」をして楽しんだ事はあると思う。
しかし、中学・高校になってから「理科」が物理や化学・生物・地学など細分化され、それらに対する意欲や関心が急激に薄れる人は少なくないと考える。これについては、成長とともに関心事が人間的・社会的な現象や事象に移って行くということが考えられる。
他にも、自然科学を受け入れるに対して心理的な抵抗が増えるということがあるとも考える。例えば、かつて興味をもった自然現象が科学のルールによって縛られて行く絶望する人も多いと思う。現在から数百年、千数百年前の知らぬ科学者が見つけ出した自然法則やルールに則って「自由なことをしてみましょう」といっても、興味がない状態では不自由で何もできなかったりする。おそらく最初に習うオームの法則を使いながら、自然の現象に対して探究心を引き出すにも難しい所がある。
こういうジレンマを抱えたまま進めていくのはとても苦しい。
では、どうして進めていくか。自然科学関係においてはある程度「問の立て方」がある。これを説明するには自然科学における歴史・経緯の話をしなければならないが、クソ長ったらしいので雑に要約をしながら話す。
科学革命とは自然の現象に対する問いの立て方について変わった時期である。
科学革命以前は自然科学という存在が存在しなかったわけではないが、錬金術等の即物的な考え・技法や、アリストテレス的な「現象の本質を観察し、理屈を導く」にとどまり、宗教などの超自然観に対する見方を克服することはできなかった。
しかし、ルネサンスと宗教改革が始まり、神を中心とする超自然観から重点が覗かれ始め、大航海時代により数多くの知識・情報が増え、そこから「実験データ間の関係性を確立しにいく」というガリレオ的な姿勢に変化したのである。
つまり、「質」から「量」あるいは「対象」から「方法」に転換したのである。
ここらへんについては、データの比較が重要になっているということは、「測ることができるもの」という対象に限定されていると言うことがわかる。
この姿勢については、ガリレオが発した言葉である「測り得るすべてのものを測れ。測り得ないものは測り得るようにせよ。(Measure what is measurable, and make measurable what is not so) *1」にまとまる。
つまり、自然科学において「知る」というのは「測る」ということであり、実験のデータをグラフにして考察するということは、数学で言う「関数」の概念を用いるということになる。
量等の関係を記述するための言語として数学が使われるので、ガリレオの「自然という書物は数学という言語で書かれている。(The Book of Nature is written in the language of mathematics)*2」という発言も象徴である。
ここから自然科学の発展段階だったり、各分野についての導入も書きたいところであるが、そこまでかたっ苦しい事を初っ端からしてしまうと今後のハードルが高くなりすぎてつらくなってしまう。今回はここに切り上げて、この続きのキーワードだけ記しておこう。
キーワード:巨人の肩の上に立つ(standing on the shoulders of Giants)
*1,I Gordonand and S Sorkin,The Armchair Science Reader (New York 1959)
*2,The Assayer (1623)
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